欧米中心(祈り・聖歌)

 『岩波キリスト教辞典』で、「クリスマス」や「サンタクロース」「バレンタインデイ」などを担当させていただいたときにも、また、それ以前からも感じていたのですが、日本では、キリスト教というと、まだまだ 
ヨーロッパ・アメリカの宗教
という印象が強いように思います。同時に、これも誤解されていることですが、
ヨーロッパ・アメリカの行事はキリスト教の行事
と思われているようです。
 10月の終わりのハロウィンも、もともとは、ケルトの呪術的要素が多いのですが、アメリカの「感謝祭」と結び付けられて日本に伝わってきたせいか、やはり、キリスト教の行事の一つと考えられているようです。たとえば、古代ローマで太陽の誕生日であった降誕祭=クリスマスのように、そこで、十分に神学的な反省が成され、しっかりとインカルチュレーションされれば問題はありません。しかし、日本では、バレンタインデイのように、商業主義の洗礼を受けているものが少なくないように思います。ハロウィンもそのひとつで、こころある方は、「ハロウィンとキリスト教」について違いを明確にして批判しておられます。
 
 ところで、キリスト教は本来、アジア(中近東)のユダヤの宗教ですが、なぜ、ヨーロッパ・アメリカの宗教という印象が強いのでしょうか。その第一の理由はキリスト教を日本に伝えたのが、ヨーロッパやアメリカの宣教師がほとんどであったことでしょう。そして、彼らが伝えたキリスト教は、神学も、文化も、習慣もすべてヨーロッパやアメリカのものであり、それらをそのまま日本に持ち込んだからです。
 だからといって、「それらがすべて悪い」とか、「考えなしに持ち込んではた迷惑だ」、などというつもりは毛頭ありません。彼らが、多くの苦難を乗り越えて、キリストのもたらした救いを伝えてくださらなければ「遠く地の果てまで、すべてのものが神の救いを見た」ことにはならなかったからです。
 ですが、明治以降、キリスト教がもたらされてから、100年近く、ヨーロッパ・アメリカの宗教から脱却できなかったことは、残念なことで、カトリックの有名な神学者カール・ラーナ『あなたの兄弟とは誰か』宮沢みどり訳(サンパウロ 1985 )で次のように述べています。
 「十六世紀以降のヨーロッパ植民地主義の動きの中で教会は、事実上世界宣教の使命を引き受けた。しかしながら教会は私たちの時代に至るまで、無邪気にも、またやむをえずキリスト教を世界にもたらそうとしたけれども、多少とも(理論的にではなくとも実践的に)ヨーロッパの輸出品目として伝達して来たキリスト教だったのである。それでもヨーロッパ以外のほかの国々の兄弟たちは、不本意ながら、家庭における未成年者のように子供扱いされてきた。私たちは彼らにラテン語で神学を教え、ラテン的典礼を授け、日本では彼らのためにネオ・ゴティックの教会を建て、彼らにヨーロッパの聖歌を歌わせ、彼らのためにヨーロッパ人の司教を与え、あるいはヨーロッパの尺度に従ってその地の司教をローマで選出した。
 以上のことは皆よい事だと思われ、また長いこと避けがたかったかもしれない。たとえ私たちヨーロッパ人が罪深いキリスト者でありながらも、同時にこれらのことをヨーロッパ風の尊大さをと思い上がりの一端であることを認めなければならないとしてもである。


 このように、神学者や宣教師の中には、日本へのキリスト教の宣教を深く考え、インカルチュレーションの必要性や、日本文化で教会に取り入れることのできるものを評価されている方もおられるのですが、肝心の日本人の方が、欧米型の教会から脱却できないでいるのではないかと思います。一例ですが、『カトリック聖歌集』『典礼聖歌』に入っている「やまとのささげうた」の作曲者、高田三郎氏が「公教会聖歌集改定委員会」から新しいミサ曲の作曲依頼を受けたとき、氏は、日本では、すでに洋楽が主流であり、今様風の『讃美歌』(54年版)245番がそれほど歌われていなかったことから、純洋式を提案したそうですが、これに真っ向から反対したのが、改定委員でもあり、当時エリザベト音楽大学の学長でもあったゴーセンス神父と、パリ外国宣教会の司祭で、当時、東京カトリック神学院でグレゴリオ聖歌を指導していたアヌイ神父の二人でした。もし、このお二人が純和式を主張しなければ、「やまとのささげうた」も『典礼聖歌』も生まれなかったかもしれません。
 欧米型の教会から脱却できないのは、残念ながら『讃美歌21』にもみられ、この中で日本人の作詞・作曲によるものは、わずかに9.2パーセントに過ぎません。この『讃美歌21』が出る前は、少なくとも半分は、それでなくても、せめて30パーセントが日本人の作詞・作曲によるものになると思っていたのですが。

 日本にキリスト教がなかなか根付かない理由がいくつか挙げられますが、そのひとつには、日本の教会が、カトリック・プロテスタント・聖公会・正教会を問わず、まだまだ欧米型の教会から脱却できないことが理由のひとつにあるのではないかと思います。もちろん、そのすべてを否定する必要もありませんし、教会の歴史の中ではぐくまれたもの、伝統の中で大切にしなければならないものもありますが、無批判に今までのものを守ることだけにとらわれているようでは、いけないのではないかと思います。
 わたしたち、日本のキリスト者はもっと自分たちの文化を(無批判にではなく、きちんと神学的にもしっかり反省した上で)、教会の中に取り入れることを考えてもよいのではないかと思います。なぜなら、主キリストは
すべての人の救いのためにこの世にこられ
たのですし、すべての民族も文化も神の手による創造の作品なのですから。
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by omasico | 2005-11-03 16:06 | 祈り・聖歌  

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