事故の教訓

 先日17日午後、横浜市のサレジオ学院の校門近くで、下校途中の生徒の列に自動車が突っ込み、2人が死亡、7人が重軽傷を負うという事故がありました。この日はちょうど、テストだったそうで、生徒たちは、きっと、その日の試験の出来不出来について話し始めたか、試験が全部終わっていたら、今日の午後は何をしようかなどと話していたことでしょう。実は、サレジオはわたくしの母校で、現校長、副校長、教頭始め、年配の教員の方々はよく存じています。わたくしが在学していた当時は、校舎は、東名川崎インターの裏にあり、現在の場所に移った野は1995年のことです。わたくしが在学していた当時の学校の前も、多摩田園都市から川崎インターに出る要道となっていたので、かなりの交通量がありました。学力も上がってきましたし(入学当時のわたくしの学力では現在入学することはできないでしょう)、校舎も手狭になったりしたので、現在の場所に移りました。

 ところで、今回のこの事故で、いくつかのことを思い巡らしました。懐かしさはともかくとして、まず第一は、いつ自分が同じようになるか、という疑念です。これは、生徒、すなわち被害者になるかもしれないと同時に、運転を誤った加害者にならないという保証もない、というものです。教会から数分の所には、いくつかスーパーがあり、よく歩いて買い物に行きますが、信号待ちをしているときなど、ときどき、ハンドルを切りそこなった車が突っ込んできたら、よけられるだろうか、と思うことがあります。と、同時に、教会/幼稚園に行くまでには、2つの小学校の近くと、1つの高校の側にあるバス停を通りますが、さて、自分は、そこで、全体に事故を起こさないかと問われたら、「はい」とは絶対に言い切れません。急に心臓の発作が起こってハンドルを切り損ねたり、何かが飛び出してきて避けようとした弾みに、絶対に突っ込まないという確証はまったくないのです。おそらく、加害者の青年も、そこの場所はよく通る、慣れた道で、これくらいいつも飛ばしていて大丈夫、という安心感があったのだと思います。この、慣れた道という安心感が、この不慮の事故を招いたのだと思います。

 そして、もう一つ考えたことは、事故にあって重軽傷を負った生徒も、事故にあわなかった在校生も、いずれは、ほとんどが運転免許をとるであろうということで、この事故を教訓にして、
運転教育
をしてほしいということです。このようなことを書くと、「免許をとる前にそのようなことをすると、無免許運転を助長するだけだ」と仰られる方もあるかもしれません。しかし、運転教育をすることは、人権教育倫理教育にもつながるものだと思うのです。一例ですが、道路交通法には「明らかに横断する歩行者があるときは、車両は停止しなければならない」といった条文がありますが、どれだけの車両がこれを守っているでしょうか。ここでは、「続いて走っているから停まらなくてよい」とか、「反対車線だから行ってもかまわない」といったことは言われていません。もし、そのようなことにしたら、交通量の多い道路では、歩行者はいつまでたっても(とは言いすぎですが)横断することができなくなります。このようなことが決められているのは、交通弱者を守り、優先させるためでなのです。そして、このことを通して、すべての法律の本来の趣旨は、
弱い立場の者を権力、暴力から守るため

だということを、教えることが出来るからです。
 
 生徒たちも、自分の親の運転する車に乗る機会が多くあると思います。もし、親が、本来のあり方の運転をしていなければ、何らかの時に、「このようなことを学校で習ったけれど、何で、お父さん(お母さん)は、そのような運転をしないの?」と問うことで、親子の対話も深まり、サレジオが目指す、「ドン・ボスコがいう『信 (Pistis)』、『愛 (Agape)』、『理 (Logos)』を根本とする」教育につながってゆくのではないかと思うからです。

 今回の、母校サレジオの受けた事故は、教職員、在校生、保護者はもちろんですが、わたくしたち卒業生にも大きな衝撃となりました。ですが、これを機会に、サレジオが目指す教育に、更なる一歩を踏み出したほしいと思います。
 最後になりましたが、不慮の事故によっていのちを落とされた、島守、鍋田両君が神のもとで安らぎを得られるよう、また二人のご親族と、怪我を負った7名の後輩、およびご両親のこころとからだが一日も早く慰められるよう祈りつつ、この記事を閉じたいと思います。


 
 
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by omasico | 2005-10-18 18:08 | omasicoプライベート  

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