戦時中の話(2)

前回、このタイトルでは、戦時中でも、庶民には手の届かないものでも、あるところには、あることを書きました。今回は、反対に、あっても、それが、現代では思いもよらないことであることを書いてみたいと思います。
東日本大震災をはじめ、今月の、広島の土石流災害、水害など、まず、被害に見舞われた皆様に、お悔やみとお見舞いを申し上げます。現代の日本では、このような、災害の時には、国内はじめ、海外からも援助の手が差し伸べられ、食料だけは、遅くても数日中のうちには、ほとんどの方に届けられます。また、かなり、深刻な災害でも、おおよそ、ひと月すれば、毎日、同じものだけを食べている、ということは、ないように、思うのですが、いかがでしょうか。
ところが、戦時中はそういうわけにはいかなかったようです。米などのいわゆる、主食となる原料は、戦地に優先的に送られるか、前回お話したようなところで、消費されます。もちろん、昭和18年以降になると、戦地に送られた米も、輸送船がアメリカの潜水艦の標的となり、ほとんどが海の藻屑と消えてしまいました。
内地では、特に、都市部では、食料が不足してきますので、何日に、一度か、配給が行われました。この、配給制度、今では、おそらく考えられないと思いますが、まず、家族の人数によって、配給の量が決まってきます。それも、すべて、一人どれくらいと、一律です。だれは、こういうものが食べられないとか、アレルギーがあるなんてことは、まったく考えられていません。食べられないほうが悪い、という理論です。
 次に、配給される食品は、ある日は、米、その次は、大豆、など、一回の配給で、決まったものしか配られません。ですから、前の配給で配られたものを食べてしまっていれば、というより、配給は毎日のようにあるわけではありませんから、すでに食べてしまっている場合がほとんどですから、配給で配られた食品以外食べるすべがありません。つまり、次の配給まで、手元に、他の食料品がなければ、大豆を食べて、飢えをしのぐしかなかったわけです。
 同じことは、父から聞いた話なのですが、これは、戦時中ではないのですが、漁師の網元の家でも同じだったようで、イカが取れたときには、おかずは、毎日、イカ。ニシンが取れたら、毎日、ニシンだったそうです。
 現代では、よほどのことがない限り、二週間、毎日、食パンとサバ缶だけ、ということは、ないと思ます。
 戦時中の話しというと、ついつい、戦場体験や空襲体験が多くなりますが、こういった、庶民の普段の生活も、不自由を強いられたことも、伝えてゆきたいものです。

[PR]

# by omasico | 2014-08-28 09:12 | 歴史と宗教  

防災の日を前に

「信濃毎日新聞」のサイトの昨日の記事で、23日に、飯山市が原発事故を想定して初の訓練をしたことが、掲載されていました。訓練の想定は、新潟県中越沖を震源とする地震で、飯山市で震度6を観測、これにって、原発事故が起きたというのですが、これを見て、またか、思いました。
防災訓練というと、ニュースでも、放送されていますが、特に、大規模災害を想定した訓練で、見られるのが、「どこどこを通行止めにして」とか、「○○に住民が集まって」というものです。しかし、実際に、災害が起きた場合は、こんなにうまく行くでしょうか。
たとえば、今回の飯山市の場合、夏場に、バスに乗って避難したわけですが、飯山といえば、豪雪地帯です。東日本大震災の翌日、飯山市のお隣、栄村付近を震源とする、やはり、大きな地震がありました。天災は、時期を選んで起こってはくれません。飯山市や栄村で、豪雪となり、道路も鉄道もマヒしているところに、このような地震が起きたときにはどうなるでしょうか。
それは、首都圏でも同じことが言えると思います。今回、多数の犠牲者を出してしまっている、広島のように、豪雨が数日続いた場合、あるいは、首都圏で大雪が降って、交通がマヒして、大渋滞が起きているときに、首都圏直下型の地震が来ない、という保証はありません。
もちろん、訓練なのだから、被害者を救出できるように、避難できるような準備をすることが目的だ、と言われればそれまでなのですが、訓練なのですから、最悪のことを想定して、準備をすることも、必要なのではないでしょうか。
首都圏直下型地震の場合、たとえば、上にも書いたように、大雪で交通がマヒして、大渋滞が起こり、さらに、転倒者が続出して、救急車も多数出動している。そのようなときに、地震が起こったら。渋滞している車の上に、ビルからの落下物が落ち、救急車の中にも、それに巻き込まれる車があるかもしれません。また、多くの救助依頼があっても、救急車自体がすでに出動中ですし、渋滞した道路や、落下物が散乱しているところでは、いくら、救急車とはいえ、普段のように、患者さんを搬送できるとはいいがたいでしょう。
鉄道も道路も、マヒしている状態で、地震が起きないという保証は、まったくないのですから、大規模災害の訓練では、こういう、最悪の事態も予想した、準備をする必要があると思います。
1933年8月11日に東京を中心にして行われた、防空演習を、信濃毎日新聞の主筆であった、桐生悠々は、もし敵の飛行機を関東の空に迎え撃つことになったら、敗北を意味するのだ、という痛烈な批判社説を書いて、社を追われましたが、その十数年後、それは、現実のものとなりました。原発の過酷事故訓練でも、最後は、電源が復旧して、めでたしめでたしで終わらせていた、というのは、目新しいところですが、大規模災害訓練も、そういうところがないとは言えないような気がします。
来週、9月1日は、防災の日に当たります。防災の日を前にして、ある、新聞記事をもとに、ちょっと、考えた次第です。

[PR]

# by omasico | 2014-08-25 10:52 | 危機管理  

巷の音楽

今日は、家から、車で数分のところにある、ショッピングモールに行ったのですが、そこで、大変、気になったことがありました。
スーパーや、コンビニ、あるいは商店街でもそうですが、街中に行くと、BGMが流れていますが、このモールでも例外ではありません。ところが、モール、全体でのスピーカーから以外にも、専門店として入っている、それぞれのお店で、独自にBGMが流されています。それどころか、あるお店では、同じ店の中に、いくつかのCDラジカセがおかれて(並んでいる商品の陰に隠されて)いて、それも、かなりの音の量なので、一つの音楽としてではなく、表現が、よくないかもしれませんが、騒音以外のなにものでもないようにしか、感じられませんでした。
こういう風に感じるのは、わたくしが、特に、音楽を専門にしているからかも、しれません。わたくしの母は、喫茶店に行っても、本を読めるそうですが、わたくしは、BGMの流れているところはもちろん、他の人が少し大きな声で話しているような列車の中では、BGMや話し声に耳がいってしまい、本を読むどころではありません。このようなことは個人差なので、いい、悪いの問題ではないとは思いますが。
ただ、前述の、ショッピングモールのような状況は、少し、事情が違うと思いました。というのも、流されている音楽作品を作曲した作曲家や、そのGDの演奏家は、はたして、他の音楽と混雑したような状況で、自分の音楽が流される(聴かれるではなく)ことを想定して、作曲し演奏したのでしょうか。
こういうことを考えたとき、日本(だけではないかもしれませんが)では、音楽も、使い捨てになっているのかと感じ、悲しい気持ちになってきました。もちろん、他の考え方があるかもしれません。でも、音楽を愛するものとして、このように、音楽が単なる騒音のように、扱われていることは、とても残念でなりません。

[PR]

# by omasico | 2014-08-21 19:47 | 音楽・オルガン  

なかにし礼さん、平和の申し子たちへ

なかにし礼さんの「平和の申し子たちへ」を聞きました。
詩で、朗読だけで、伝えるよりも、音楽として、歌曲、合唱曲として、伝えてゆくほうが、もっと、インパクトがあります。
作曲家の皆さん。
特に、ここで、訴えます。
松下耕君、栗山英樹君、同級生として。
ぜひとも、この詩に、曲を付けてください。
わたしたちの子供たちが、殺されることより、人を殺すことがないように。
世界の人たちが、殺しあうことがないように。
殺し合いではなく、話し合いで、平和の道を探ることができるように。

[PR]

# by omasico | 2014-08-19 21:19 | 全ブログ共通  

パパ様のことば(2)

あるサイトに、某牛丼チェーン店の過労働の問題の記事がありました。それには、結局、働いているのが「人間であることを忘れていた」ということが、原因の一つになっていたのだということが書かれていました。
これは、常々、パパ様=教皇フランシスコが訴えていたことにほかなりません。パパ様がおっしゃるには、人間が大切にされる社会、人間の尊厳が守られることが、現代社会では軽視されていることを、危惧しておられます。
某牛丼チェーン店の問題は、この会社の問題だけではないと思います。確かに、お客さんも大切ですし、会社の経営も大切でしょう。しかし、そこで働いている、従業員はどうなのでしょうか。
コンビニの標語などでも、お客さんや商品を大切にすることは、うるさいほど書かれています。しかし、本部や本部の社員から、従業員が大切ですから、とか、従業員へのねぎらいの姿勢は、ほとんど感じられません。
お客さん、会社、従業員、これが、店舗にとっての三位一体ではないかと思います。いくら、お客さんに人気があっても、会社の経営が安定していても、三本柱の一つ、現場の従業員がいなければ、お店は、成り立ちません。
某牛丼チェーン店の事件は、会社の常識は社会の非常識であったのですが、これは、日本の常識は世界の非常識にもつながりますし、現代人の常識は神の国の非常識である部分があることをわきまえておく、これが、パパ様の忠告の原点にあると思います。

[PR]

# by omasico | 2014-08-19 09:29 | 全ブログ共通