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千年の過ぎ去った一日のよう

 創傷治療や糖質制限で高名なドクター夏井のサイトで、ロバート・ヘイゼン『地球進化46億年の物語 「青い地球」はいかにしてできたのか』(円城寺守監訳 渡会圭子訳 講談社ブルーバックス 2014 原題 THE STORY OF EATH)が紹介されており、面白そうなので、読んでみました。典礼音楽が専門のオッチャンがそんなもんを読んで、わかるのか、と言われそうですが、昔から自然科学分野が大好きだったので(たぶんに、SFが好きだったこともありますが)、大変、面白く読み終えました。

 で、その本の最後の方に、次のようなくだりがありました。
「これからの一〇〇年で起こる、地球を変える出来事の中には(確実なものもあれば、かなり高い可能性で起きると考えられていることもある)、瞬間的なこともあるだろう。大地震や巨大火山の噴火、あるいは直径一キロメートルを超えるような小惑星の衝突。人間社会は一〇〇年に一回の嵐や地震に対する準備が不足している。ましてや一〇〇〇年に一回の災害のことはほどんど考えていない。地球史をひもとけば、そうした衝撃的な出来事はふつうに起こっていて、延々と続いているこの惑星の歴史の一部だとわかる。それなのに私たちは活火山の中腹や、地球で最も活発な断層帯に都市をつくり、自分が生きている間だけは地殻変動の衝撃にあわないことを願うのだ(宇宙からの飛行物は避けられないにしても)。」(同書355ページ)
 わたしたちの普段の生活は、「自分が生きている間だけは地殻変動の衝撃にあわないことを願う」のではなく、「自分たちが生きている間は地殻変動は起こるはずがない」と思いこんでいるだけなのではないでしょうか。

 しかし、日本列島を客観的に見直してみると、そのほとんどに活断層が走り、プレートの境界付近の地殻変動の影響、衝撃を受けやすい場所に位置しています。また、列島全体が急峻な山であり、河川も、大陸を流れるものに比べれば、源流から河口までの距離に対する標高差は急なものばかりです。しかし、この列島の上には、山肌を削って作られた住宅、津波がいつ押し寄せてもおかしくなく、地震で液状化を起こしても不思議ではないところに作られた高層マンション、さらに、活断層のすぐ上と言ってもおかしくないところに核発電所が林立しています。最近の考古学や地質学の研究を基礎にすれば、まさに、地殻変動の巣窟で私たちは生活しているわけです。

 わたしたちの人生は120年。地球の進化の歴史からすれば、ほんの一部でしかありません。しかし、この本によれば、地球自体が進化しており、マントルの対流により、地殻は確実に一年に数十センチずつ移動しているのだそうです。このことは、伊豆半島がもともとフィリピン海のプレート上で生まれた島であり、日本列島に衝突して現在に至っていることからもわかります。ですから、日本列島の近くでは、プレートの境界近くで起こりうる地殻変動が起こらないはずがない、起こって当たり前なのです。本の著者ロバート・ヘイゼンが言うように、「自分が生きている間だけは地殻変動の衝撃にあわないことを願う」のであり、「自分たちが生きている間だけは地殻変動が起こるはずがない」と思っているだけなのではないかと思います。しかし、それは、必ず起こることであり、いつ、起こるかは私たちにはわかりません。それが、百年に一度でも千年に一度でも、必ず起こることには間違いがないのです。

 人間の思考のスパンは、長くても五十年から百年がいいところでしょう。それは、 第二バチカン公会議で発布された『典礼憲章』の解説を著した、ヘルマン・シュミットという神学者が、その著書の中で、「人間というものは自分の眼前にある五十年乃至百年間守られてきた習慣を、成可く動かさぬようにしたいと望むものである。」(ヘルマン・シュミット『典礼憲章の解説』J・アプリ訳 エンデルレ書店)と言っていることからも窺うことができます。しかし、防災や安全に関しては、現代の考古学、地質学の研究を踏まえて、もっと、長いスパン、1000年くらいを標準として、考えるようにしたいものです。旧約聖書の詩編の中に、「あなたの目には千年も過ぎ去った一日のよう」(詩編90:4)という一節があります。神の目から見て、というのは無理かもしれませんが、せめて、わたしたちが住んでいる地球という星の歴史のスパンを理解した防災を考えてみる必要があるのではないでしょうか。

by omasico | 2014-08-31 14:24 | 危機管理  

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